発心
自己を習う
他己を知る
誠信会創立者である長谷川明徳は、曹洞宗玉泉寺・長谷川徳仙和尚の長男として生まれ、昭和31年に駒沢大学を卒業し僧侶となるため熊本県の大慈寺で禅の修行をおこないました。
その時、大慈寺開祖寒巌禅師が有明海の開拓や架橋など社会事業に力を注がれた思いに感銘を受け、大慈寺での修行の後、永平寺での修行を経て社会事業の勉強をすべく福祉の学校(現在の東北福祉大学)へと進学しました。
自己を習う
他己を知る
誠信会創立者である長谷川明徳は、曹洞宗玉泉寺・長谷川徳仙和尚の長男として生まれ、昭和31年に駒沢大学を卒業し僧侶となるため熊本県の大慈寺で禅の修行をおこないました。
その時、大慈寺開祖寒巌禅師が有明海の開拓や架橋など社会事業に力を注がれた思いに感銘を受け、大慈寺での修行の後、永平寺での修行を経て社会事業の勉強をすべく福祉の学校(現在の東北福祉大学)へと進学しました。
僧堂時代 熊本にて
今、自分に
できること
昭和33年、狩野川台風が伊豆半島全域に約930名の死者・行方不明者をだす被害をあたえ、たまたま学校から帰省中であった創立者は、駅で泣いている災害孤児となった子供たちを見捨てられず寺へ連れ帰りました。
「子供たちのために、今の自分にできることは」
当時指導をうけていた恩師である故田代不二男先生(東北大学名誉教授)に相談をして、先進の児童福祉を学ぶため、アメリカ・ネブラスカ州・オマハ市「少年の町(ボーイズ・タウン)」に修行をする決意を固めました。
横浜港にて見送りの丹羽老師
アメリカ、少年の町見学のため吉原駅を出発する長谷川園長
I go to Boy's town
昭和34年、その当時外国へ行くことの困難さは計り知れず、横浜港からアメリカに向かう貨物船を親しき人達が見守ったそうです。そこから太平洋の航海を二週間、さらに内陸のネブラスカ州オマハ市「少年の町」まで二ヵ月余り、片言の英語と「I go to Boy's town」と書いた札を胸に下げ、ヒッチハイクによる旅を続けました。
「少年の町」に到着し、故フラナガン神父の後継者ニコラス・ウェグナー氏に田代不二男先生よりの紹介状を見せると、異国の僧侶に、「よく来られた、心ゆくまで勉強していきなさい」と一部屋を与えられたそうです。「少年の町」は、文字どおり学校、銀行、警察まである一つの町で、入所児も3,000人くらいの大規模な施設でした。
そこでは第二次大戦の孤児、事情により家庭で生活ができない子供が職員と一緒に住み、農園などで働き、勉学をしていました。
USAネブラスカ州オハマ空港ロビーにて1959年11月
子供たちの
笑顔のため
そしてボーイズタウンで一カ年の社会福祉事業に対する情熱を燃やした創立者は、帰国後まだ「福祉」という言葉すら珍しかった昭和37年5月に、玉泉寺の旧本堂を利用して数人の子供たちをあずかり、檀家の人々、近隣の人々の援助をいただき生活を始め、同年11月に待望の児童養護施設「誠信少年少女の家」の認可がおり、社会福祉事業の第一歩がはじまりました。
設立当初
誠信会の徽章
当時の施設は、お寺の旧本堂と庫裏をつかい、本堂の大広間をベニヤ板で仕切り、職員と子供達が一つの部屋で生活し、風呂も「五右衛門風呂」・台所も「かまど」と子供たちが生活するには不便でした。
このような設備を早く改善するため、托鉢行道、補助金を得て、昭和41年「誠信少年少女の家」の建物完成、翌年4月には常盤宮さまに御臨席いただき落成式を行いました。
旧誠信少年少女の家
托鉢行道
旧本堂
あきらめず、
皆が自ら
働きかける力
この頃より更なる社会福祉事業として理念『群生和楽』すべての人々の幸せのため「ふくしの里」を実践すべく、アメリカの「少年の町」のような広大な土地を求めて富士山麓を駆け巡り、岩倉の地にたどり着きました。当時の岩倉は、森林に覆われ職員と子供たちが自ら開墾を手伝い昭和45年11月児童養護施設「岩倉学園」の認可。
そして建設中に、オイルショックにより建築費が高騰、職員と共に東奔西走し開設に辿りついた、昭和50年6月富士市初の特別養護老人ホーム「富士楽寿園」の認可。
地域社会での生活に困窮していた、障害を持った人の自立支援をするため、昭和54年4月障害者支援施設「富士和光学園」の認可、昭和61年障害者支援施設「富士本学園」の認可。そして創立よりの気風“あきらめず、皆が自ら働きかける力”をもって、水源確保が不可能と考えられた岩倉の地に、過去の石油を掘った史実を頼りに念願の井戸を掘りあてました。
岩倉学園建設予定地
創立者信念
しかし昭和63年2月創立者長谷川明徳は夢なかばで逝去いたしました。同年4月の葬儀では、「ねむの木学園」の宮城まり子さんが「あなたが施設づくりの後見人だった」と涙の弔辞をのべ、多くの皆様に愛しまれつつ旅立ちました。
その後、数々の施設を開設してまいりました。我々は創立者長谷川明徳の遺志を受け継ぎ、創立者信念『もとより福祉の掲げる理想と現実の場における実践とは、なかなか一致しがたく行き詰ることも多いと思いますが、マンネリ化することなく、施設は毎日毎日朝がくれば発足の日、認可の日と、創立の精神を今一度我々は考え直し、「社会福祉がその理想とする、すべての幸福に向かってまい進するように、我々は深い愛情、理解、努力にって、単なる机上のプランではなく、実践、行動をもって活躍し、実践は理論を生み、理論は貴重な実践、行動力をなす。これらが積み重ねられ紆余曲折の内に幸福が生まれてくると信ずる」の理想のごとく、職員、入所者一丸となって進みたいと思っています。』を振り返り歩んでおります。
長谷川明徳
昭和34年 | 長谷川明徳 アメリカ ネブラスカ州オマハ市フラナガン神父ボーイズタウンにて1ヶ年の見聞修行 |
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昭和37年5月5日 | 玉泉寺旧本堂を改築 地域社会の協力により養護施設(誠信少年少女の家)建設始める |
昭和37年11月1日 | 児童養護施設 誠信少年少女の家 施設認可 |
昭和40年2月22日 | 社会福祉法人 誠信会(法人)設立認可 |
昭和42年4月8日 | 誠信少年少女の家 落成式 常陸宮殿下、同妃殿下御来園 |
昭和42年4月29日 | 児童養護施設 誠信少年少女の家 天皇陛下より御下賜金拝受 |
昭和43年4月1日 | 後保護事業所「誠信製作所」(トイレットペーパー加工)創設 |
昭和45年11月1日 | 児童養護施設 岩倉学園 施設認可 |
昭和48年4月27日 | 誠信会創立10周年記念式典 |
昭和50年6月1日 | 特別養護老人ホーム 富士楽寿園 施設認可 |
昭和53年7月5日 | 富士本診療所 開設 |
昭和54年4月1日 | 障害者支援施設 富士和光学園 施設認可 |
昭和55年4月29日 | 児童養護施設 誠信少年少女の家 天皇陛下より御下賜金拝受 |
昭和55年7月17日 | 岩倉子育て観音建立 |
昭和55年10月12日 | 誠信会創立20周年記念式典 |
昭和59年4月1日 | 岩倉歯科診療所 開設 |
昭和61年4月1日 | 障害者支援施設 富士本学園 施設認可 |
昭和61年10月21日 | 誠信会創立25周年記念式典 |
昭和63年4月29日 | 児童養護施設 岩倉学園 天皇陛下より御下賜金拝受 |
平成1年4月1日 | 高齢者介護ホーム やすらぎの家 富士市より委託運営開始 |
平成2年4月1日 | 知的障害者通勤寮 そびな通勤寮 富士市より委託運営開始 |
平成4年11月11日 | 誠信会創立30周年記念式典 |
平成9年5月1日 | 知的障害者生活寮 中野ホーム 施設認可 |
平成10年10月1日 | 障害者療育支援センター事業 開始 |
平成11年10月1日 | 知的障害者グループホーム 高山ホーム 施設認可 |
平成12年4月1日 | デイサービスセンター ふじみ台 施設認可 |
平成14年11月4日 | 誠信会創立40周年記念式典 創立者胸像除幕 |
平成16年4月1日 | 心身障害者生活寮 あおぞら第1・第2事業 開始 |
平成18年4月1日 | 障害者就業・生活支援センター事業 チャレンジ 開始 |
平成18年4月3日 | 放課後児童クラブ みらい 開始 |
平成20年5月1日 | 特別養護老人ホーム かたくら明和園 施設認可 |
平成23年3月31日 | デイサービスセンター やすらぎの家 施設閉所 |
平成24年4月1日 | 富士市中部地域包括支援センター事業 委託運営開始 |
平成24年11月17日 | 誠信会創立50周年記念式典 |
平成25年4月1日 | 児童家庭支援センター パラソル 開始 |
平成26年4月1日 | サポートセンター くろーばー 開始 |
平成27年3月1日 | 小規模多機能型居宅介護 結 施設認可 |
平成28年4月1日 | つぐみ 施設認可 |
平成29年12月23日 | 障害者支援施設 富士和光学園 天皇陛下より御下賜金拝受 |
令和4年11月10日 | 誠信会創立60周年記念式典 |
令和4年5月1日 | 特別養護老人ホーム富士楽寿園 移転 |
令和4年4月1日 | 地域小規模児童養護施設あやめ 認可 |
令和6年6月5日 | 法人後見事業 開始 |
令和7年4月1日 | 里親支援センターいろり 認可 |
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